自分へのご褒美
文は人なり、という言葉を見かけるたびにドキッとする。
仕事の関係で、自分の文章が会社の名前とセットになって世間様に発信されるという、冷静に考えると責任重大な事態に見舞われて早3年。
与えられた条件の中で、主語を会社にしながら文章を作ることにも慣れてきた。
子どもの頃から文章を書くのは好きだった。
小学生3年生の国語の授業で起承転結の概念を学ぶために「物語」を書く単元では、一人だけボリューミーな「小説」を書き上げたし(先生は読むのが大変だったろう)、友達との交換日記の中で物語を書くのも好きだった(実在のクラスメイトがパラレル世界に登場する妄想大河超大作である)。
条件が決まった中で文章を組み立てるのも苦ではなかった。
義務教育期間中、私の作文は学校の代表としてほぼ毎年学校外の文集に掲載されたし、大学の卒業論文も学術論文の形式に則ってスムーズに論を展開できた。
そして、自分の意見を表明するのも嫌いではない。
高校時代は自分のサイトに日記を更新することにハマり、学校の勉強が疎かになったのであった。(当時はまだ今程SNSが浸透しておらず、ガラケーユーザーだった)
好きなことを好きなだけ、自分のサイトという専用の空間に書く満足感。日記を読んだ友達から飛んでくるコメントが、また面白かった。(進学校ゆえに素晴らしい文章力を持った友人たちに恵まれていた)
現在、文章を書くのは専ら仕事のみ。
読み手に事実が正しく伝わるように、会社が置かれた立場を最大限考慮しながら、語彙を吟味し、文章構成に頭を捻る。
そこには慣用句や比喩、情景描写はない。
書き手つまり私の主観も盛り込まない。
でも正確さを求めすぎて、鋭利で冷徹な印象の文章になるのは論外。
書き手の立場と読み手の立場を、行ったり来たりしながら調整に調整を重ねて文章を整える。
そんな作業が私の仕事の大半を占める。
さて、そんな毎日を過ごしている中で「文は人なり」というフレーズを目にする機会が、偶然続いた。
【読み】 ぶんはひとなり
【意味】 文は人なりとは、文章は筆者の思想や人柄が表されている。文章を見れば書き手の人となりが判断できる。
【注釈】 フランスの博物学者ビュフォンが、1753年、アカデミーフランセーズの入会演説で言った言葉から。
【英語】 The style is the man.(文体はその人の人となりを表す)
【用例】 「文は人なりというから、手紙を書くときは気をつけよう」
自分の書いた文章を見る。
人となりを極力消した文章。きっと誰が書いても同じような文章になるし、むしろそのような文章がビジネスでは求められるはず。
「書く」毎日は苦痛ではない。だけれども、楽しくは、ない。
自分の好きなことを好きなだけ書散らせていたのは、いつが最後だったろう…
書かなければいけないから書くのではなく、書きたいから書く。
それは、今の私からすると、とても贅沢で幸せな時間の使い方ではないか。羨ましい!
いやいや待てよ、だったらまた始めればいいじゃない!(謎のもう一人の自分の囁き)
そうして気がついたら、このように人生初の匿名ブログを開設していたという次第。
好きなものを好きなだけ好きな時に書く。
自分へのご褒美として、このブログを贈呈しよう。