【今週のお題:大人になったなと感じるとき】夕暮れの中で

今週のお題「大人になったなと感じるとき」

 

前回の投稿から2年半もの月日が流れてしまった。

私はその間に転職をし、初めて住む町へ越してきた。

 

憧れた業界で初めての職種、連日の長時間労働

 

前回の投稿で高らかに宣言した、自分のために文章を書く“贅沢”を享受できないほど目まぐるしい毎日だった。

 

いや「だった」と過去形で書いたものの、現在進行形で相変わらずバタバタとした毎日を送っている。しかし今日ふと感じたことと今週のお題「大人になったなと感じるとき」がリンクしたので備忘録的に文章を書くことにした。

 

 

今日は在宅勤務日だった。

在宅勤務といっても、職種柄1日中家にいられることは稀で、今日も今日とて客先へ直行直帰する“在宅勤務”の日だった。

 

帰り道、ビルとビルの隙間から、夕焼けが見えた。

この季節はすぐに陽が落ちる。16時頃だったと思う。

 

ふと、中学校時代に友人から投げかけられた「1日の中で好きな時間はいつ?」という質問を思い出した。

 

当時の自分がなんと答えたのか覚えていないし、友人の回答も覚えていない。

でも先ほどの問いに対する友人の発言は折に触れて思い出すのだ。

「うちのお母さんは夕方が好きなんだって。」

 

私は「ええー!夕方ってなんか寂しいから、やだな」と答えて、友人も同意した。

 

「でも、寂しいから好きなんだってさ。なんか、変だよね!」

 

中学校2年生の時に何げなく交わされた会話。その友人とは中学校卒業後、別の高校に進学して以来会っていないし連絡も取っていないのだけど、なぜかその発言だけはいやに鮮明で、こうして夕暮れの中にいるとき、数年に一度思い出すのだ。

 

 

そして、今日、ふと「ああ、寂しさを好ましく思えるって、大人なのかも」と気が付いた。

 

一口に「寂しさ」といっても様々あると思う。

[形][文]さび・し[シク]《「さぶし」の音変化で、動詞「寂(さ)びる」に対応する形容詞》
 心が満たされず、物足りない気持ちである。さみしい。「―・い顔つき」「懐が―・い(=所持金が少ない)」「口が―・い」
 仲間や相手になる人がいなくて心細い。「一人―・く暮らす」
 人の気配がなくて、ひっそりとしている。さみしい。「―・い夜道」
[派生]さびしがる[動ラ五]さびしげ[形動]さびしさ[名]

寂しいとは - コトバンク

 

私が人間関係において「寂しい」という感情を痛感したのは、実は成人後の話である。

子ども時代、母は専業主婦で部屋は妹と二人で一部屋。友人も多くそれなりに愉快に暮らしていた私にとって「寂しい」という感情は取り立てて重要なポジションを占めることはなかった。

ところが成人後、話も価値観も合うと思っていた恋人と初めて大ゲンカした夜、「隣で寝ているのに、こんなに気が合って大好きだと思っていたのに、この人は“他人”なのだ。世界で一番私のことを理解してほしい人が理解してくれない。なんて寂しいの!!」と生まれて初めて痛切に“寂しさ”を実感したのだった。笑

 

気が合うと 見せかけて
重なりあっているだけ
本物はあなた わたしは偽物

世界は ひとつじゃない
ああ もとより ばらばらのまま
ぼくらは ひとつになれない
そのまま どこかにいこう

星野源「ばらばら」より

 

世界で一番私のことを理解してほしい人が全然理解してくれない。

世界で一番近くにいると思っている人の心がとても遠くにある。

星野源の全国ツアーでばらばらを聴いて「自分以外にも同じことを考えている人がいた!?」と目から鱗が落ちた気分になったのは、今思えばアホな思い出だけど。(今からは考えられないくらい規模の小さな会場でライブをされていたくらい昔の話です。笑)

 

寂しいという感情を自分事として実感したあの日は遠くなりにけり。

でも“寂しい”と感じていた昔の自分が、なんだか愛おしい。

 

 

中学生の頃の私は知らない。大人になった私が、校庭を見下ろす渡り廊下で何げなく交わした会話を思い出していることを。そのきっかけになったのは、住むとは全く想像していなかった土地で見た夕焼けということを。そして“寂しい”って気持ちを抱いた自分のことを案外悪くないじゃんって思っていることを。

 

 

 

 

自分へのご褒美

お題「ブログをはじめたきっかけ」

 

文は人なり、という言葉を見かけるたびにドキッとする。

 

仕事の関係で、自分の文章が会社の名前とセットになって世間様に発信されるという、冷静に考えると責任重大な事態に見舞われて早3年。

与えられた条件の中で、主語を会社にしながら文章を作ることにも慣れてきた。

 

子どもの頃から文章を書くのは好きだった。

小学生3年生の国語の授業で起承転結の概念を学ぶために「物語」を書く単元では、一人だけボリューミーな「小説」を書き上げたし(先生は読むのが大変だったろう)、友達との交換日記の中で物語を書くのも好きだった(実在のクラスメイトがパラレル世界に登場する妄想大河超大作である)。

 

条件が決まった中で文章を組み立てるのも苦ではなかった。

義務教育期間中、私の作文は学校の代表としてほぼ毎年学校外の文集に掲載されたし、大学の卒業論文も学術論文の形式に則ってスムーズに論を展開できた。

 

そして、自分の意見を表明するのも嫌いではない。

高校時代は自分のサイトに日記を更新することにハマり、学校の勉強が疎かになったのであった。(当時はまだ今程SNSが浸透しておらず、ガラケーユーザーだった)

好きなことを好きなだけ、自分のサイトという専用の空間に書く満足感。日記を読んだ友達から飛んでくるコメントが、また面白かった。(進学校ゆえに素晴らしい文章力を持った友人たちに恵まれていた)

 

現在、文章を書くのは専ら仕事のみ。

読み手に事実が正しく伝わるように、会社が置かれた立場を最大限考慮しながら、語彙を吟味し、文章構成に頭を捻る。

そこには慣用句や比喩、情景描写はない。

書き手つまり私の主観も盛り込まない。

でも正確さを求めすぎて、鋭利で冷徹な印象の文章になるのは論外。

書き手の立場と読み手の立場を、行ったり来たりしながら調整に調整を重ねて文章を整える。

そんな作業が私の仕事の大半を占める。

 

さて、そんな毎日を過ごしている中で「文は人なり」というフレーズを目にする機会が、偶然続いた。

【読み】 ぶんはひとなり
【意味】 文は人なりとは、文章は筆者の思想や人柄が表されている。文章を見れば書き手の人となりが判断できる。
【注釈】 フランスの博物学者ビュフォンが、1753年、アカデミーフランセーズの入会演説で言った言葉から。
【英語】 The style is the man.(文体はその人の人となりを表す)
【用例】 「文は人なりというから、手紙を書くときは気をつけよう」

文は人なり - 故事ことわざ辞典

 

文は人なり

自分の書いた文章を見る。

人となりを極力消した文章。きっと誰が書いても同じような文章になるし、むしろそのような文章がビジネスでは求められるはず。

 

「書く」毎日は苦痛ではない。だけれども、楽しくは、ない。

自分の好きなことを好きなだけ書散らせていたのは、いつが最後だったろう…

 

書かなければいけないから書くのではなく、書きたいから書く。

それは、今の私からすると、とても贅沢で幸せな時間の使い方ではないか。羨ましい!

いやいや待てよ、だったらまた始めればいいじゃない!(謎のもう一人の自分の囁き)

 

そうして気がついたら、このように人生初の匿名ブログを開設していたという次第。

 

好きなものを好きなだけ好きな時に書く。

自分へのご褒美として、このブログを贈呈しよう。